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カテゴリー「「粘る稀なガン患者」より無断転載」の5件の記事

2012年9月16日 (日)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】バランスということサリドマイド

 「粘る稀なガン患者」より無断転載シリーズは,これで,最後です。

 「審査が順調に進んだ場合は、来年夏にも承認されることになる。」とあるが,実際にサリドマイドが承認されたのは,2008年のことである。
 その物質によってどんな被害を受けたとしても,その物質を必要とする,その物質がないと死んでしまう者が,その物質を入手するのを妨害する権利は,なんびとにもないはずである。
 慎重を期しているあいだに,患者は死ぬ。

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2006年8月10日 (木)
サリドマイドの国内承認申請

 サリドマイドの国内での承認申請について報道された。

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販売停止のサリドマイド、がん治療で承認申請

 深刻な薬害を引き起こし、約40年前に販売が停止された「サリドマイド」について、大阪府松原市の製薬会社「藤本製薬」が8日、血液のがんの一種である多発性骨髄腫(しゅ)治療薬としての製造販売の承認を厚生労働省に申請した。

 審査が順調に進んだ場合は、来年夏にも承認されることになる。

 処方対象は、多発性骨髄腫患者のうち、サリドマイドの服用以外の治療法で十分な効果が得られない患者。

 同社は、昨年7月から今年6月にかけ、患者38人を対象に臨床試験を行ったが、「有効性や副作用の発現率は、海外のデータと大差はない」としている。

 薬害を防ぐ方策として、同社は、妊婦に対しては使用禁止としたうえで、女性については使用前に妊娠検査を義務づけ、さらに、使用者を登録制にするなどの「安全管理体制を確立する」としている。

 かつて催眠・鎮静剤として販売されたサリドマイドは、妊婦が服用して胎児の手足に重い障害が出る薬害が相次ぎ、1962年に販売が中止された。

 しかし、海外で多発性骨髄腫に有効であることがわかり、個人輸入が急増した。患者団体から早期承認を求める声が上がる一方で、薬害被害者からは慎重な審査と、厳重な管理体制の確立を求める要望が寄せられていた。
(2006年8月9日0時52分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20060808i415.htm
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 一見して、がん患者と薬害被害者に配慮した穏当かつ妥当な記事のように思う。
 確かに、過去のサリドマイド薬害を思うとこのような記事しか書けないのは理解できるし、現実論として、厳重な管理体制が求められることはやむを得ないとも考える。
 しかし、経口の抗ガン剤(TS-1、イレッサ、UFTなど)は、サリドマイド以上の危険性を有している。
 きっと、世の中には、サリドマイドよりも危険な薬剤・薬品はいろいろあるであろう。
 もちろん、中には、極めて厳重な管理が求められているものもあろうが、その多くは、サリドマイドで行われるような管理(妊娠検査、使用者登録制など)まではなされていないのではなかろうか。

 科学的というか技術的な観点からは、バランスを欠いていると言えよう。
 もちろん、ものごとは科学的バランスのみではない。科学的観点ではなく社会的観点(俗に言う「国民の声」)もある。
 したがって、サリドマイドに他と比較して厳しい安全管理体制が要求されること自体は「やむを得ない」ことなのだろう。

 とはいうものの、長期的・全体的な目で見ると、国民の声に不必要に配慮して科学的バランスを欠いていた措置というものはマイナスのことが多い。

 サリドマイドを考えるときには、もちろん過去の悲惨な薬害を忘れてはならないが、もう一方で、純粋に危険物・毒物として見た場合のバランス(場合によっては、危険物・毒物一般の管理のあるべき姿まで)を含めた広い視野からの報道は望めないだろうか(多分、無理だが・・・)

2012年9月15日 (土)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】ホスピスと緩和医療についてのメモランダム

 これは,記事の参考にするためではなく,数十年後にやってくるだろう自らの緩和医療期に備えてとりこんでいたものである。
 しかし,よくよく考えてみれば,数十年後では,事情が変わっている。

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2010年8月 2日 (月)
ホスピスと緩和医療についてのメモランダム

昨年、妻を亡くし、子供もいない。また、近くの親戚は、いい人ではあるものの、お年を召していて「実力・実行力」に難があるし、なによりも最後に迷惑をかけるのは気が進まない。

子供もいないこともあり、ある程度のお金はあるのだから、ホスピスの活用が第一候補だろうとこの一年程度、少しずつ(積極的に調べる気にはならないが)勉強してきた。

体調の急変化に勉強してきたことは、ほとんど活用できそうもないが、せっかくなのでメモを残しておこうかと考える。

<1>ホスピスの諸タイプ

そもそもホスピスとは、がんが死の影を宿す病であり、そして痛み(疼痛)とも結びついていると(疼痛緩和医療が進んでいなかった十数年前の状況を背景に)、「白い病院・医学的医療看護体制」ではなく、より緑の中で家族やボランティアに見守られて、少しでも精神的には安らかな死を求めるというキリスト教的背景により出てきたものである。
そして、これは現在の問題点につながってくることにもなるのだから、保険料算定も特殊な形になっている。
つまり、保険料は「出来高払い(行った治療行為の積み上げ)」が原則なのに、ホスピスでは積極的治療はさける(治療漬け・検査漬けはマイナス)のため、原則をそのまま適用すれば経営はなりたたない。
このため、病室面積や看護スタッフの基準を厳しくするかわりに、そのたのものは、治療内容を問わない一律としているのである。
もちろん、高めの算定はされているが、まじめに疼痛緩和医療を行おうとすると、使われる薬剤が高価なため、保険料だけでは経営的に困難なことが多いそうである。

ところで、この安らかな死というキリスト教理念を背景にしたホスピスは現在でも多数であるが、従来タイプのホスピスといえよう。

これに対して、緩和医療技術の進歩と、やはり人は家族なり社会の中で過ごすのがよりよい道との考えから、新しいタイプのホスピスが出つつある。

この背景としては、中心静脈ポートを通しての在宅栄養管理や、各種モルヒネ系鎮痛剤の開発により在宅での鎮痛管理が以前より容易になったことから在宅の壁が低くなったということがある。
もちろん、退院前には、在宅栄養点滴の技術を家族に習得していただいたり、個々人により異なるのであるからその患者さんに応じた鎮痛薬の基本ベースをホスピスで調整してからになるし、病状の進展により、入院・再調整・退院、そして、やはり在宅では困難となっていくが従前の籠の中のスズメならぬホスピスの中のスズメよりも人間らしいように私には思える。
この方法ならば、おおっぴらには言いにくいが、退院中に、積極的治療に極めて熱心(逆にみればリスキー)な医師による積極的治療を受けることもむりではないだろう。

この新しいタイプのホスピスは多くはないが、増えつつあるのがトンデモホスピスである。

最初に書いたようにホスピスは出来高払いではない。したがって、(緩和医療すら含めて)なにもしなければ、しないほど利益になる。
しかも、ホスピスでは、いったん入院させれば、退院するのは困難である。
この結果、名前だけ(名前以下)のホスピスが繁殖しつつあるから注意が必要である。大病院からかわるのであれば相談センターや、そのようなつてがなくとも看護師さんからの非公式情報を集める努力を早めからすべきである。

特に、きちんとした評判のよいホスピスの人気は高く、待ち時間も長い。
まだまだ積極的医療と思っていられるうちからホスピス探しは始める方がよいのかもしれない。

<2>ホスピス料金考

ホスピス自体は健康保険対象であるが、実際には、差額ベットというかなりの本人負担が求められる。
その金額はピンからキリまで様々であるが、ピンについてきいたところでは(きちんと調べていないので不正確)、K立がんセンター中央はホスピスは有さないが、個室料金は3~4万円が中心。聖路加は5万円/日(ただし、最近のタイプのホスピスなので、できるだけ入院ではなく在宅を多くする努力が強い)、そして、有明の癌研は300万円/月。
逆に、その他はいろいろであるし、都立の病院には施設と比すると割安と思えるところもある。

キリについては別として、ピンの価格に不当に高いなどという投稿を目にすることがある。
高い・安いというのは主観の問題である。
しかし、健康保険からはそれなりの、しかし、十二分なことをするには困難な金額しか支給されない。

もしも、人の最後を安らかに送るためには、健康保険基準の人員では不足と思い、また、部屋面積も狭すぎて不十分とするならば、高賃金であり不動産の価格も高い日本では、「そのような人にとって」、これが「必要実費」なのではないのか。

その病院が適当と判断する質のホスビスを、その価値ありとして受け入れる人が「自分の負担」において選択することを、他人が不当に高いとか金儲けなどというのはどうだろうか。
(もちろん、差額個室料金の高いところへの保険給付を減らし、個室料金の低いところへの配分をあつくするというのはよいかもしれないが)

例えば、才能(タレント)もないタレントが、どんなに豪華な結婚パーティをあげようと、ホテルに儲けすぎというのと変わりなく思える。
言葉汚く言えば、単なるひがみにすぎないのではないか。

それよりも問題にすべきは、キリに近いホスピスである。

宗教的バックグラウンドを持つホスピスには経済性を度外視して運営されているところもある。このようなキリの施設には幸せあれ。であるが、このような施設は極めて少ないところであろう。(さらにいえば、安らかな死の追求という従来タイプであろう)

しかし、それよりも多いのが、基準面積を満たしたと言うだけの、古くてきれいとはいいがたい病室、安価な看護スタッフを最低基準数、集めたのか、患者よりも病人くさい看護師、さらには、患者さんをみていると当然可能な緩和治療すらなされているのか・・・という(健康保険給付はなにもしなくてももらえるのだから)、キリの個室料金のホスピスのほうが本題できないか。

これこそ(内容に比して)高い値段をふきかける、金儲け主義ではなかろうか。

これらについては、最後に別の見方から考えてみたい。

<3>ホスピスはがんにだけ?

まったく別の話なのかもしれない。
私も、これがホスピスに結びつくものか不明である。
しかしひょっとすると、ホスピスを別の見方でみるきっかけとなるかもしれない。

ということで、答えのない書き出しだけを・・・

「不治の病。それはがんだけではないはずである。もちろん、急性型の病はホスピスとは関係しないだろうが、慢性型の徐々に進行していくものはまだまだあるはずである。
そして、その中には、病気の進展に伴い疼痛緩和が重要になるものもあるはずである。
しかし、ホスピスというとがんに独占されているのが現実ではないか。

がんの中にこれらの病以上にホスピスと結びつく要素があるのか、それともがんがホスピス全体を僭称してしまっているのか。

ひょっとすると「がん」「ホスピス」についての異なる見方に気がつくかもしれない・・・」

<4>緩和医療の基礎知識から

ホスピスにしろ在宅にしろ、疼痛緩和医療の最低限の知識は必要だろう。
不要な心配や、間違った知識による患者本人のマイナスを少しでも小さくするために。

疼痛緩和のために使っている限りモルヒネ中毒の心配はない。

がんの手術に限らず、普通の手術(処置によっては手術でなくとも)において、モルヒネは鎮痛剤として広く用いられており、その意味では、特殊な薬ではない。
ただし、中毒性を有しているので、「不必要な大量」を使用すれば、中毒になるおそれはあり、したがって、厳重な管理がなされている。
したがって、患者側からすれば、どれだけの量が中毒のおそれのある「不必要な大量」かということである。
そして、その答えはいたって簡単である。「鎮痛のために使っている限りは、どのようにグラム数が大きくても中毒にはならない」ということだからである。
脳の中で、体に疼痛を感じさせるもととなる物質とモルヒネが反応して鎮痛効果を出すこととなる。
つまり、鎮痛のために使っている=モルヒネが反応する疼痛を感じさせるもととなる物質がある=中毒のもととなるモルヒネはないということである。
なお、モルヒネの量については、薬代が高額なためか健康保険の審査算定が厳しく、疼痛緩和に足らない量しか認められてこなかったということのほうが問題である。

モルヒネ漬けとは限らない

がんという病気は、通常進行していく。これにあわせて、疼痛のほうは増してくるので、前の説明を考えれば、それに応じてモルヒネの量も増やしていくことが一般となってしまう。
しかし、これは病状の進行にあわせて量の調整であり、「モルヒネ漬け」などにはあたらない。
さらに言えば、がんによる疼痛にも波がある。波に応じた減量もありえれば、あるいは、別に受けた積極的治療の効果が出るかもしれない。そうなれば、減量ではなくゼロの可能性もある。

おおまかにいって2種類の分業である。

鎮痛剤にはおおまかにいって2種類の分業といえる。

ひとつは、投与して効果が十分に出るのに1時間とか数時間かかり、そして効果が数時間から半日以上、その後徐々に効果がなくなっていくという、「じわじわ長期間」タイプのものである。
このタイプのものを投与するタイミング・量を調整し、疼痛側の「基礎」というべき痛みを抑えるわけである。
これについては、投与する時刻・量を守るともに、疼痛とのバランスがとれなくったら、すぐに受診し、量などの再調整を受けるのが大事ということになる。

もう一つのものは「レスキュー」とも呼ばれるものである。基礎というべき疼痛の他の、一時的・突発的な痛みに対応するものである。
効果が出てくるまで半時間程度、効果継続時間1~2時間というようなものである。
当然ながら、自己判断での服用となるが、効果が出るまでの時間はゼロではないので、いかにうまく疼痛を認識するかがポイントとなるだろう。

WHOラダー

がんの疼痛緩和のための薬は多くのものが開発・実用化されている。
そのおかげで疼痛から解放される方は極めて多い。
ここまでは、その中心となるモルヒネ系を主に念頭に置いてきたが、それ以外にも、いろいろな薬剤がある。
それらを網羅的に整理し、使用すべき標準的順番をWHOがまとめたのがWHOラダーである。ラダーとは梯子である。弱いもの(主として初期に使用)から強いものまで、強さにほぼ応じていると思ってもらえればよい。
具体的な内容は「WHOラダー」で検索してもらえば適切な解説はいくつも出てくる。
ある程度のラダーがわかれば、主治医に尋ねる時に、WHOラダーではどの付近かなどと使うと、主治医も回答をしやすいし、また、患者側に一定の知識があるということを前提にしてくれるので、より深い答えがわかるかもしれない。

 疼痛緩和医療の効果

疼痛緩和医療は進んでいる。
いろいろな鎮痛剤や機器の開発・実用化により、きちんとした緩和医療により、7~8割の患者さんがつらい疼痛から解放されるところまで来ているそうである。(患者全員でないのは残念ではあるが)
ほかに手段がなくなり「最後の方法」として、大量のモルヒネを使用した「昔」の知識・経験で判断するのは時代錯誤といわざるおえない(ただし、緩和医療を尽くしてもつらい疼痛が続く時、患者または家族の同意のもと、鎮痛剤の量を増やして、意識を最低にまでもっいくセディテーションといわれる医療は残っているが)

そして、疼痛とがん本体に立ち向かうのに対し、疼痛は緩和医療に委ねて、がん本体に立ち向かう方がブラスであることは、とても理解しやすいことである。
私自身は直接確認はしていないものの、事実、余命が長くなるというはっきりとしたデーターも出ているのである。

まだ、疼痛緩和医療が発達していないころ(「最期のモルヒネ」)のことだけを知識に、モルヒネ・麻薬から目を背けるのは患者のためにならないと考える。

<5>「安らかな死」

ホスピスについては、「安らかな死」というひとの最も根本的な、ある意味、各個人の宗教観とも結びつく微妙かつあいまいな、しかし、根源的なものかもしれない。
しかも、「(安らかな)死」というもっとも、個人に属する(国と独立であるべき)ことが、(ホスピス固有の)健康保険給付という形で「社会」「国」とつながってしまっている。

他方、現在の日本は「お金」を中心とする浅薄な「生」が精神の中心で正面から「死」についてとりあげられることは少ない。逆に「死」に対して向かい合いたくないためか、実際の「死」に対して、マスコミをみても、家族のみならずマスコミ自身が感情的な反応しか示さなくなりつつある。

私とても、このような深い問題をどこまで理解しているかといえば疑問である。
しかし、浅い部分といえど無益でもなかろう。

個室差額自体については、「ねたみ」を別にすれば、とどのところ、お互いに気に入った高額サービスの購入である。どんなに高額な結婚式あるいは葬式を行おうと、それ自体には本質的な問題はなかろう。(金持ちへの保険給付を減少して、他に回すべきということは一つの理屈ではあるが、保険給付自体は、それまでの健康保険料の反対給付であるので差をつけるのは法的に困難だろう。)
それよりは、現在のホスピスの看護スタッフや設備の基準が(安らかな死には)低すぎないのかのほうがより本質のはずである。しかし、これをあげるとすれば、そのための保険財政負担をどうするのか。そもそも「治療」=「生きる」ための健康保険で「安らかな死」のための費用をどこまでまかなうのか。日本人として「他人」の「安らかな死」のために、どこまで自分のお金(健康保険料)を出すのをよしとするのか。

次に、緩和医療の進歩と「安らかな死」についても考えないといけないだろう。

広い意味の医療の視点から、「安らかな死」を整理すると、
・ 適切な人(看護)や環境(施設)の中での死などという「精神的な安らかな死」
・ 疼痛緩和医療など「肉体的な安らかな死」
(このほか、精神腫瘍医のような中間的な存在もあるが、少数なのでここではとりあげない)
に大別してよいのではないか。これを前提として考える。

ホスピスがとりあげられた数十年前には、疼痛緩和医療は進んでいず「最後のモルヒネ」でしかなかった。
それどころか、出来高制のため、無意味な投薬や検査のための検査の横行など「精神的な安らかな死」を妨げることすら見られていた。
これに対して、看護・設備基準を高めることを義務づけ、他方、不要な投薬・検査をおさえるために出来高払いとする。
ある意味、合理的な選択である。

しかし、疼痛緩和医療の発達により十分とは言えないが「肉体的には安らかな死」が見込めつつあり、また、社会・経済の発達に伴う「人(看護)や環境(施設)」の高価格化にもなっている。
ところが、健康保険制度は従前から変化していないため、「人(看護)や環境(施設)」は基準ギリギリであり社会経済の発展を考えれば実質低下、他方、投薬などをしないほど儲かるため、きちんとした疼痛緩和医療がなされないということになりつつある。
私としては、(多少の上乗せは必要かもしれないが)「人(看護)や環境(施設)」については差額個室のような個人の契約ベースによる。(少なくとも、適用範囲の少ない高額医療に保険特約をつけるならば、末期差額病室特約のほうがよさそうである)。
逆に、疼痛緩和医療については、必要な使用に必要な費用が払われる出来高制にし、国(健康保険制度)は「肉体的には安らかな死」を担保する。
なお、不必要な投薬・検査をなくすのは、他の医療と同様に保険給付での審査の問題にすぎないはずである。

といろいろと書いてきたが、掲示板などから見る実態は、「安らかな死」などとは無関係である。
いわゆる入院の3ヶ月制限を背景に病院を出なければならない患者を、経済的に迎え入れることができない家族。
そこには、「生」「死」について、きちんと考えてこなかった日本が背景にあるのかもしれない。
とにかく患者を「ひきとってくれる」ところが欲しい。安かろう・悪かろうのほうが負担が軽くてよい。

ここまで書いてきて、日本の精神貧困さにたどりついてしまった。

2010年8月 2日 (月) 全記事, 粘る稀ながん患者の独善的コラム | 固定リンク

2012年8月27日 (月)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】休眠療法

 今回の転載文は,「【完治をめざして】☆休眠療法」で使用した。

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休眠療法 -1-
2007年2月23日 (金)

日本の幽霊は足がないのにあちらこちらを動き回る。
同じように、意味をはっきりさせず、イメージのみで動き回る「言葉」が最近、とみに増えてきているような気がする。
もちろん、日常使用する言葉について、いちいち「定義」が求められてはやっていられないが、といって、大事な時の言葉が意味曖昧なものでは大変なことになりかねない。

医療では、同じ言葉をある医師が使うのと別の医師が使うのが別の意味であり、さらに、患者は異なる意味で理解するなどということになると命にかかわることもある。

そして、このような曖昧語を駆使して、意図した勘違いをさせるようにたくらむ日本語に熟達した(しかし、良心は未発達な)業者もいるらしい。

前置きはこれくらいにして、最近、気になっているのは「休眠療法」なる言葉である。
イメージはわかるが、その内容などについては、(少なくとも私にとっては)アイマイな部分が残る。

まずは、休眠療法のもととなる「考え方」は
・従来、とかく重視されてきた腫瘍の縮小ではなく、憎悪しないことを評価ポイントとし
・副作用を重視する
と理解している。
この考えには、諸手をあげて賛成したい。

その「結果」として、
・非憎悪ならば抗がん剤の投与量を少なくすることが可能であり、
・極めて副作用を少なくすることができる
とされているようである。
投与量が少なければ、副作用が比較的低くなることは事実であろう。
しかし、「非憎悪ならば抗がん剤の投与量を少なくすることが可能」はどの程度本当なのだろうか。
多くのがん患者が標準投与量(最大投与量)によっても、憎悪が抑えられなかったり、なんとか、変化なしを維持しているのが実情ではないだろうか。
もちろん、抗がん剤の投与を少なくできる人もいることは確かであろう。ただし、これが全てのがん患者にあてはまるとも思えない。「どの程度」本当なのだろうか。
また、投与量が少なければ、比較的副作用が低くなることは事実であろう。しかし、投与量が少なくとも副作用がでる可能性はあろうし、標準量の投与を受けても副作用が低い人もいるだろう。これも「どの程度」本当なのだろうか。
私自身のがんについて言えば、治験論文を見る限りでは、最大量投与しても、縮小する割合は低く、やっと変化なしというのが大勢のようであり、休眠療法の実現可能性に対しては「懐疑的」である。

さらに、休眠療法のほうが延命効果が高いという医師もいる。
どの程度、きちんとしたデーターに基づいているのだろうか。医師の主観というものと、客観的な臨床データー(統計データー)が異なるということもよくあるようである。まさか、単なるその医師の主観で言っているのではないだろうな。
私自身は、きちんとしたデーターをみたこともなく(データーがあるということを聞いたこともなく)、それが本当ならば嬉しいが、たいていの場合は世の中そんなに甘くはないと思っている。「真偽不明」ではあるものの「否定的」といえよう。

あなたの思っている「休眠療法」の内容をはっきりさせるために質問をしたい。もちろん、答えに正解はない。しかし、これによりあなたにとって「休眠療法」が何を意味しているか多少は明確になるかもしれない。
・もしも、「副作用に問題がない、ある投与量で腫瘍が減少した」場合、さらに、腫瘍の減少がみられなくなり変化なしになるまで投与量を減らすのか。あるいは、副作用に問題がなければ、腫瘍が減少するにしくはなしということで、その量を維持するのか。
・どのレベルの副作用を問題なしとするのか。例えば、主観的な副作用として、吐き気について「軽いむかつき」がある場合、投与量を減少させるか。客観的な副作用として、白血球減少は正常値を多少でも下回ったら不可とするのか、あるいは、通常まず影響がみられない(例えば、4000)程度ならばよしとするのか。
・さらに、上記のような条件(あなたなりの回答)で、実際に休眠療法が可能な患者は全体のどれくらいになると想像するか。
・そして、休眠療法のほうが延命効果が高いということは、(1)事実である、(2)仮説であるが正しそう/間違っていそう、(3)虚偽である。

あなたにとっての休眠療法のアイマイさが少なくなってくれれば幸いである。

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休眠療法 -2-
2007年2月23日 (金)

休眠療法については、ある意味で、がんに効くと称する健康食品と似たところがある。
どちらも、副作用がなく(あるいは極力少なく)、がんに効くという、そうあれば良いなというものである。
もっとも、一方は「がんが完治」などということをいうことが多いのに、他方は、「がんの増大を押さえる」といっているところが異なる。また、一方は、どう見ても「業者」さんなのに対して、他方は、まっとうな医師がやっている(場合もある)。
なによりも似ているのは、標準的治療よりも優れていると主張するのに、それに見合ったデーターを示さないことである。一方は(どうみても作文としか見えない)患者の体験談(と称するもの)であり、他方は、その医師の体験談程度しか示されない。
もちろん、休眠療法では、投薬量や薬の種類を細かく変更しながら行うのであろうから、通常の治験に相当するようなデーターをまとめることは困難であることは理解できる。
しかし、例えば、患者さんのがんの種類・ステージと休眠期間といったものをまとめて示すことはできないとは思えない。
この程度のデーターでも、標準的治療と比較して、どの程度優れていそうなものか/どれくらい劣っていそうなものか(←副作用が軽微なのだから、多少劣っていても許容するという患者は多いかもしれない)ということについて、おおよその検討をつけることは可能であろう。そして、これが有望なものならば、休眠療法に挑む医師もおのずから増えてくるだろう。

休眠療法を行っている医師に梅澤先生がいる。先生は本のほか、ブログ(「現在のガン治療の功罪~抗がん剤治療と免疫治療」)で積極的に経験を発信されているのでご存じの方も多いであろう。
個人的には、熱意にあふれ、また、病院と診療所の使い分けなどといった患者負担にも配慮なさるというその姿勢には深く敬意を払う。
お目にかかったことはないが「良医」でいらっしゃるのだろうと思う。
もちろん、行っていらっしゃる休眠療法自体については、患者の希望を踏まえたものでありとやかく批評するつもりはないし、また、それだけの能力もない。さらにいえば、もととなるデーターが示されていない。

とはいうものの、ブログを読ませていただく限りでは、いくつか気にかかることがある。
はっきりと言えば、標準的抗がん剤に「感情的偏見」をお持ちのようにも思える。
「標準的に大量の抗癌剤を使って、抗癌剤という爆弾だけでガンと戦っていく治療」だとか「度重なる激しい抗癌剤爆撃」などと書かれている。さらに「現在の、人間が耐えることのできる最大耐用量の抗癌剤を使う標準的な抗癌剤治療では、それと年単位で付き合える人間はほとんど存在しません」とまでされているが、現実には、私の周囲にはその「ほとんど存在」しない方が大勢いる。
もちろん、梅澤医師にいわせれば、そのような「少数例」がいることは否定していないというであろう。
そして、自分の体験では、これは少数例だとおっしゃるだろう(そうでなくては、ブログで書かれている趣旨と違いすぎる)。しかし、先生のもとに来ている患者さんは、副作用が強く標準的抗がん剤を許容できなかった人が大多数のはずであるから、梅澤医師の体験は「偏ったもの」にすぎない。梅澤先生のもとに行っている患者よりももっと多くの患者が標準的抗がん剤を許容できる範囲の副作用で受けているのかもしれないのである。
少なくとも、梅澤医師の経験は(休眠療法を積極的に希望している患者という)限られたものであるはずである。
それにもかかわらず、このような断定的な表現(それも、読む人の「感情」を刺激するような)をとられるのは軽率ではないでしょうか。

また、標準的抗がん剤治療について「「無治療よりは○ヶ月だけ長生きできる」というご立派なエビデンス・・・標準的な抗癌剤治療に対してどれだけの患者さんが満足できるのでしょうか」とか「エビデンスどおりの治療を行い、エビデンスどおり結果に終わる。」と書かれます。しかし、これには二つの問題があります。
エビデンスというのは平均ですから、当然、これよりも結果の良い方もいます。また、効果が出なければ、ただちに、次の選択薬を試すはずです。したがって、「エビデンスどおりの結果に終わる」と断定できるわけはありません。
なによりも、私も、確かに現在の抗がん剤治療に満足はしていません。しかし、それ以上に重要なのは、よりベターなことが示されているものがないということです。
梅澤医師が、このような批判を行うからには、ご自身の休眠療法がベターなものであることを(体験談ではなく)示されることが先決のはずです。
患者が「満足していない」ことは事実です。しかし、より良い治療を示さずに、とりあえず最有力とされているものを批判するのは医師としてどうなのでしょうか。

また、胃がん手術について「先ずは、内視鏡手術が可能であるか否かを納得のいくまで調べてみることは重要だと思います。取ってしまった胃は、二度と戻りませんから・・・・
また、内視鏡手術が不可能な患者さんでも、 お腹を大きく切る手術ではなく、・・・腹腔鏡での胃切除手術」と書かれているがこれについても梅澤医師の姿勢が感じられる。
内視鏡や腹腔鏡が患者の受ける負担が少ないことはいうまでもない。しかし、その反面、開腹手術では容易に確認できる腹内の状況(某医師によれば開腹手術は最大の検査だそうだ)の確認についてはマイナスとなることも忘れてはならないはずである。
本当に早期ならば、このようなマイナスは問題とならないだろう。しかし、適用かギリギリの場合は、このようなことも含めて判断されるべきだろう(もちろん、最終判断は患者)
短期的な患者の負担軽減を重視し、総合的な患者の利益を低く思われていなければ幸いであるが。

最後に、梅澤医師は免疫を重視されており、標準的抗がん剤やその他の薬で免疫が落ちるということに反対しているように見える。例えば「白血球の減少が無い患者さんでは、ご自身の肉体が作り出しているそれは大きな力を発揮」とか、「免疫力を落としてしまったならば、抗癌剤だけでは、ガンとはとても戦えません」あるいは「免疫力を確実に落とすことが分かっているステロイドは極力使わない」などと書かれています。しかし、がん治療に対して免疫が無意味というつもりはありませんが、ここでいう免疫は、当該がんに対する特異的な免疫のはずです。そして、承知している範囲で、この特異的な免疫についてきちんと測定もできませんし、また、実際にどの程度の意味があるものかも不明なはずです。
免疫が大いに力を発揮していることを否定はできませんが、逆に、大した意味を持たないかもしれないということも否定はできにいでしょう。一言で言えば「不明」というのが正しいのではないでしょうか。
もちろん、梅澤医師がそのような考えを持たれるのは結構ですが、といって断定的にいわれるのはどうなのでしょうか。

いずれにしても、休眠療法の有効性は、まだ示されていない(肯定的にも否定的にも)というのが正解でしょう。
有効性が示されていないということを理解した上で、休眠療法にトライされるのは一つの選択です。しかし、休眠療法が「宣伝どおりの」効果があるに違いないと信じて治療を受けようとするならば(対象が「まがい物」と「可能性がある物」という大きな違いはあるにしても)がんに効くと称する健康食品を購入するのと大差はないでしょう。

ところで、休眠療法の基本的考え方(と理解している)の「がんの縮小ではなく非憎悪重視」「副作用重視」には同感です。
とはいっても、一部の抗がん剤が効きやすいがんを除けば、非憎悪重視は当然でしょうし、標準的抗がん剤治療にしろ、そうでないにしろ、ほとんどの抗がん剤治療の現場はこれによっているのではなかろうかと思います。
また、「副作用」についても、耐えられないような副作用が出ているのにこれを無視して、薬の減量や変更をしない医師は少ないでしょう。(ゼロではないのは問題ですが)
標準的抗がん剤治療にしても、効果や副作用に応じた変更というのがその前提にあるべきですし、だんだんとそのようになりつつとあるという印象を持っています。

とすれば、一昔前の「硬直した抗がん剤治療」に対する「アンチテーゼとしての休眠療法」の意味は薄くなりつつあるのではないでしょうか。
そのような理想論・感情論ではなく、データーをもってその優位性を示すことが求められているような気がします。
(いまだに、標準的抗がん剤治療=最大限の薬の量しかできない、それでいて、副作用を抑えきれない医師の存在という問題を無視してはいけませんが)

最後に、私の場合は、「がんの縮小ではなく非憎悪重視」「副作用重視」ではあるものの、それこそ最大限に近い抗がん剤により「変化なし」が維持できています。また、これまでのところ、無理なくこれにつきあえています。
やっと「変化なし」が維持できているのに、薬量を減らしてみるような「勇気」は私は持ち合わせていません。
休眠療法のいうように少ない薬量(副作用ほとんどなし)でこれが可能ならば、一つの「理想」ではありますが、といって、可能性に過ぎない(それも私の判断では、かなり可能性の低い)理想のために現実を賭けるつもりはまったくありません(少なくとも現在のところ)。
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2012年8月26日 (日)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】「効用の最大(?)化」と「病院選択」

 今回の転載文は,「【情報】安易に名医やいい病院を教えろというひとびとへ」で使用した。

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2009年5月18日 (月)
「効用の最大(?)化」と「病院選択」

経済学でよく用いられている用語に「効用」(utility)」がある。

Wikipediaで「効用」を検索し、その一部を抜粋すると。
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効用

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表わす。対語は非効用(不満足)。見込まれている効用は期待効用

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約のもとで効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化をめざす企業部門に対し、家計部門は効用の最大化をめざすものと仮定される。一方、マルクス経済学においては、物の価値を労働ではかる労働価値説を採用している

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を測定不可能ではあるが順序付けは可能であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。
当初は基数的効用の考えが主流であり、効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。
しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係をもとに、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている。序数的効用では効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8
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効用といっても、さすがにすべてのものが同一尺度で計測できる(ということは、金銭に置き換えられる)という「基数的効用」については素朴すぎて、人間の実態に合わないと感じる。
それに比べれば、人間は意識・無意識にかかわらず、常に物事を選択しているはずだから、AとBを比べてどちらが望ましいかという順位付けのほうが、より正確なように素人ながらも思える。(もちろん、同一人物であっても、この順位は不変ではなく、環境条件などにより異なることはあろうが、ある一瞬をとらえれば順位付けができるはずである)。そうでなければ、等距離に置かれた二つの干し草のどちらも選択できずに飢え死にしてしまったロバになってしまう。

そして、「行動は、その置かれた制約のもとで効用を最大にするようになされる」という近代経済学の仮定もごく当たり前のように思える。
しかし、これには反対もあるらしい。

「市場の秩序学」(塩沢由典、ちくま学芸文庫)の第7章及び第8章を参考にしながら説明したい。

第一の反対は、人間の行動はそれほど合理的なものでなく、衝動買いのような非合理に満ちているというものである。
しかし、客観的に非合理に見えようと、あるいは、冷静になってから後悔するとしても、その人にとって、その瞬間は効用を大きく判断していたということだろう。衝動買いほど極端でなくとも同一物への評価が異なってくるというのは普通のことである。
それ以上に、衝動買いのような非合理が存在するとしても、全体から見れば、合理的な選択がなされているので、経済全体を考える経済学としては反論に当たらないというほうが「経済学」らしい意見かもしれない。

第二の反対は、効用を最大化するというなかには、将来時点で手に入る財の購入や将来に備えての貯蓄が含まれるが、その判断は当然将来のできごとに依存する。そして、未来は人間にとって不確実なものであるから、個人の効用最大化の選択能力はおおいに制約されるというものである。
しかし、人間は、意識・無意識にかかわらず、将来のことも念頭に入れながら、常に行動しているはずである。もちろん、その予想にどれだけの脳内資源を割いているのか、とか、どの程度正確なのかということは問題ではあるが、といって、将来が不確実だからといって、目の前のことを選択(行わないという選択も含めれば)しないことはありえない。
これは、効用最大化の判断と、その結果(時間がたった後の)を見れば、必ずしも最適ではなかったということであり、選択の時点で効用最大化の判断がなさけれなかったということではない。

第三の反対は、もっと興味深いものである。
効用を最大化するためには、対象物について知らなければならない。知らないものについて価値判断はできない。
ところで、あなた(一人の人間)は、どの程度の数のものについて、きちんと効用を判断するに足る知識を持っているだろうか。
10個はあるだろうし、100個あるかもしれない。しかし、一万個とか十万個ならばどうだろうか。
ちなみに大型のデパートの商品数は十数万個らしいので、デパートの買い物で効用最大化しようとしても知識不足で途方に暮れることになってしまうというものである。
たしかに、経済学は、経済学として取り扱えるようにするために多くの仮定(単純化)を置いているが、それが現実にあっているとは限らない。
第一の反論も同根であるが、人間は決してスーパーマンでも合理的人間でもない。ただ、現在の人間の限られた能力の中で経済を研究しようとすると、このような単純化をせざるをえないというだけのはずである。
ややもすると、単純化のために行った仮定が現実であり、仮定と異なる現実が間違っているとする学者がいらっしゃるようであるが勘違いされては困る。
もちろん、このような観点からの経済学もあり、興味深い結果を出しているらしいが、(私が)知らないことを(私が)このブログで論じることはできない。(←たまには、知らないのに知っているふりをしていることもないと断言しないが。)

第四の反対も興味深い。
第二・第三の反論は、人間が全知のスーパーマンでないということを論拠にしているが、よしんば、人間が全知のスーパーマンであり合理的人間であるとしても、「現実的」に最大効用の選択は不可能であるというものである。
例えば、与えられた予算の中で10個の商品のどれを買うか(及び現金として取っておくか)について、最大効用を考える。
この際、注意しなければならないのは、A及びBという商品の各単独の効用と、AとBを同時に有することの効用は異なるということである。同時に持つことにより、相補い個別よりも良くなることもあれば、ほぼ同じものならば、二つ持ったからといって、ひとつ持つ以上の効用増加は少ないかもしれない。つまり、いろいろな組み合わせを、それぞれ比較するしかないということである。
10個の商品について、それぞれ買う・買わないという選択があるのだから、組み合わせは荷の十乗で約1000。1000のものをそれぞれ比べると約50万回の比較が出てくる。
もちろん、予算の枠内とは限らないので、その比較が必要であり、逆に、これにより候補が絞られて楽になるかもしれないが、いずれにしてもかなりの数の判断が必要となること自体は間違いないであろう。
ちなみに、ひとつの判断を、脳機能にとって瞬時といえる0.01秒としても50万回の判断には1時間20分かかる。
所要時間は累乗的に増えるので、20個ならば組み合わせは百万以上、比較判断は五千億回以上となり、簡単に人間の一生を上回ってしまうだろう。
もちろん、厳密な効用最大化ではなく、おおよその効用最大化(例えば、厳密な最大化と誤差数%)とすれば、かなり時間は短縮できるが、といって、それほど商品数が増やせるわけではない。
これについては、効用最大化とは別の原理がいくつか提案されているようであるが(例えば、ある行動は(他の可能な選択肢と関係なく)あらかじめ決められたある希求水準を超えていれば選択されるという「満足原理」。)

もちろん、この「満足原理」に従っうことがベストとは限らない。
ある商品を買った後で、もっと高い希求水準を満たす商品が現れたが、もはや予算の関係で買えないということもあろうし、最初に甲商品を買っていたがために、後で見た乙商品の効用が低くなってしまったが、甲商品を買う前に乙商品を見ていれば、乙商品のほうが絶対的にも(価格に対して)相対的にも効果が高かったということも起こるであろう。
つまり、この原理に従うときは、人はしばしば後悔することになる。
こうした事態を避けるためには、希求水準の調節が重要である。希求水準が高いほど失敗が少ないという意味で賢明な買い手になるが、あまり高くなると何も買えなくなってしまう。

経済学に照らしてみると、本当に買い物とは難しいものである。
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経済学者でなくとも大変な選択はある。そして、その効用の大小が日常の買い物(しばしば後悔することがあっても大きな悪影響はない)とは異なり、その効用の大小が大問題なものもある。

(お金持ちならば別であろうが)マンションなどの不動産や自動車という高価であるが、買い替えることが少ないものはその典型であろう。
しかも、これらは、高価であり、買い替えることも少ないため、経験・知識が十分であるとは限らないからなおさらである。

ところで、がん治療での病院選びも重大な問題のはずである。
がんの治療が成熟しており、どこの病院であろうと同様の治療がなされる(と思っている人も多いらしいが)ならばともかくとして、個々の病院により、技術・能力そしてどのような治療を目指すかということがバラバラな現在では、なおさらである。
(もっとも、早期がんで、かなりの確率で手術しておしまいということならば、病院によるバラつきも少ないので、それなりの病院ならば大差はなかろうが。)

しかし、買い物同様に、がん治療の病院選びに効用最大化を図ることは現実的には困難である。

まずは、「衝動買い」。
○○ がんセンターとか大学附属病院という名前に衝動買いをしてしまう危険性である。標準的治療という考え方が広がった現在ならば、このようなブランド病院ならば明らかに誤った治療はされない可能性が高いので実害は低いだろうが、自分が受けたい治療についてきちんとした希望をお持ちの方ならば、それとのギャップに不満を持たれるかもしれない。
それ以上に問題なのは、甘い言葉のトンデモ医療機関に引っかかってしまうことである。
また、トンデモに近い病院を無知なマスコミがスーパー病院であるかのごとく報道したりすることもあるから、注意が必要である。
人間には衝動買いのような、客観的に見れば不合理極まりない選択をしてしまうことがあるということを理解して、うまい話には衝動買いすることなく、主治医なりセカンド・オピニオンという冷静な第三者の意見を参考にすべきであろう。

第二の「将来不確実性」。
たいていの患者は、がんになったのは初めてだろう。また、家族などにがんにかかられた方がいたとしても、その経験どおりになることは少ないであろう。
もちろん、調べれば、「平均的」な経過はわかるだろうが、平均どおりに経過をたどる方は少ないはずである。
つまり、将来、どのような治療が必要となるのかについて、十分な情報もないし、あったとしても、それがそのまま当てはまることは少ないのである。
極端な場合、間違いなく早期がんと診断されたため、外科手術能力を重点に病院を選択したのに、開腹してみたら転移が見つかったとか、確率が低いのに運悪く再発してしまい抗がん剤治療が必要となる可能性もある。
ちなみに、外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和といったすべてに優れた病院を選べばよいと思われるかもしれないが、少なくとも、現在の日本にそのような病院は存在しない。よしんば、それに近い病院があったとしても、ほとんどの場合、治療科ごとに独立しており、実態は、専門病院の集まり、つまり、受診している以外の科での治療は受けられないことが多い。
将来は不確実であり、場合によっては転院が必要となること(あるいは望ましくなること)もあり得ることを常に念頭において、一つの病院に「頼りきりになる」ことは損かもしれない。

第三の「情報不足」。
自由診療の病院(なぜか「?」の病院が多い)を除くと、医療機関の宣伝は極めて限定されたものしか許されていない。
そのため、個々の病院で、どのような治療がおこなわれているのか、また、そのレベルはということを調べようとしても困難である。
病院によっては、HPなどで、治療方針を掲げているところもあるが、抽象的で具体的な内容には結びつかないし、さらにいえば、掲げられた治療方針と実態が一致しているとも限らない。
なお、○○病に対する病院ベスト100のたぐいの情報は、限定された情報をもとに著者の主観により書かれているものが大半であり、「当たらずとも遠からず」ぐらいに思わなければならない。
ある医師(外科)が書かれていたことの中に、「医師どうしの情報ですら当てにならないことがある。医師の間でうまいといわれている先生の執刀を見てみるとたいしたことがないこともある。はっきりと言って、一緒に手術をした医師の評価はできるが、それ以外の医師の評価はできない。」という趣旨のことがあった。
一番、情報に接することが多い医師であってもそうなのだから、外部の患者に十分な情報がわかるわけはない。
また、実際に治療を受けている患者からの情報であっても、主治医が良いだけかもしれないし、さらには、たまたまその患者と主治医のウマがあっただけかもしれないのである。ついでに言えば、その患者は他の病院を知らないだろうから、他との比較ではなく、自分の主観を述べているにすぎないことも忘れるべきではない。
少し脱線するが、抗がん剤治療を行う病院ならば、使用している抗がん剤の一覧程度は示してほしい。もっとも、逆に、患者側に情報の理解能力がないから、病院側も情報提供しても仕方がないと考えているのかもしれない。例えば、使用している抗がん剤の一覧から、おおよその抗がん剤の治療レベルを推測できる私のほうが異常なだけかもしれない。
それにしても、一度選んだら、転院というのは想像以上に大変であるし、場合によっては、ほぼ不可能かもしれない。
如何にして、情報を集めるかというのは、後悔しない買い物(病院選び)のための大きな課題であろう。

第四の「現実的に評価困難」。
病院の選択においても、考慮すべき要素は多い。
外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和などの各治療レベルやもととなる方針。これだけでも多くの要素が出てくるだろう。
さらには、通院時間なども関係しようし、中には、病院の建物が立派かということを気にする方もいるだろう。
看護師さんもポイントかもしれない。
もちろん、ブランド病院に入りたいという方もいるだろう。
これらの要素の多くは比較困難なものである。例えば、ある特定の治療についてのレベルと通院の容易さを比較することは、困難であろう。
多くの、かつ、比較の難しい要素を、厳密に比較考慮し、最大効用の病院を探そうとしても、回答が見つからないかもしれない。

であれば、厳密にベストな病院を選択しようとするよりは、満足レベルに達する病院を探すほうが現実的であるかもしれない。
そして、その際のポイントは、希求レベル(求める満足レベル)の設定であり、これが低すぎれば、後で後悔する確率が高くなろうし、高すぎれば「ないものねだり」となってしまうだろう。

希求レベルの具体的な設定は、個々人の価値観に負うところが大きいだろうから、具体的に書くべきものではないだろう。
ただし、希求レベルの背後には、どのような治療が受けたいのかという患者のポリシーがなければ不十分なものしかできないだろうし、どのような治療が受けたいのかということは、患者自身が望ましいと考えている生き方に裏打ちされたものでなければ「もろい」ものになってしまうと考えるが、どうだろうか。

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2012年8月25日 (土)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】このカテゴリーは

 かって「粘る稀なガン患者」というブログがあったが,ブログ主逝去(推測)にともない閉鎖された。
 合理的論理的な思索をつづった非常に質の高い記事ばかりであったが,いま,それを読むことはできない。

 わたしは,自分の書く記事の参考にしようと,「粘る稀なガン患者」ブログより,いくつかの記事をとりこんでいた。
 しかし,超絶多忙のために,記事作成がはかどらない。
 ふと,わたしの駄文を付け加えるよりも,そのまま公開したほうが,だれかの役に立つのではと思いたち,そうする次第である。

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