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2012年8月26日 (日)

【「粘る稀なガン患者」より無断転載】「効用の最大(?)化」と「病院選択」

 今回の転載文は,「【情報】安易に名医やいい病院を教えろというひとびとへ」で使用した。

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2009年5月18日 (月)
「効用の最大(?)化」と「病院選択」

経済学でよく用いられている用語に「効用」(utility)」がある。

Wikipediaで「効用」を検索し、その一部を抜粋すると。
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効用

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表わす。対語は非効用(不満足)。見込まれている効用は期待効用

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約のもとで効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化をめざす企業部門に対し、家計部門は効用の最大化をめざすものと仮定される。一方、マルクス経済学においては、物の価値を労働ではかる労働価値説を採用している

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を測定不可能ではあるが順序付けは可能であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。
当初は基数的効用の考えが主流であり、効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。
しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係をもとに、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている。序数的効用では効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8
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効用といっても、さすがにすべてのものが同一尺度で計測できる(ということは、金銭に置き換えられる)という「基数的効用」については素朴すぎて、人間の実態に合わないと感じる。
それに比べれば、人間は意識・無意識にかかわらず、常に物事を選択しているはずだから、AとBを比べてどちらが望ましいかという順位付けのほうが、より正確なように素人ながらも思える。(もちろん、同一人物であっても、この順位は不変ではなく、環境条件などにより異なることはあろうが、ある一瞬をとらえれば順位付けができるはずである)。そうでなければ、等距離に置かれた二つの干し草のどちらも選択できずに飢え死にしてしまったロバになってしまう。

そして、「行動は、その置かれた制約のもとで効用を最大にするようになされる」という近代経済学の仮定もごく当たり前のように思える。
しかし、これには反対もあるらしい。

「市場の秩序学」(塩沢由典、ちくま学芸文庫)の第7章及び第8章を参考にしながら説明したい。

第一の反対は、人間の行動はそれほど合理的なものでなく、衝動買いのような非合理に満ちているというものである。
しかし、客観的に非合理に見えようと、あるいは、冷静になってから後悔するとしても、その人にとって、その瞬間は効用を大きく判断していたということだろう。衝動買いほど極端でなくとも同一物への評価が異なってくるというのは普通のことである。
それ以上に、衝動買いのような非合理が存在するとしても、全体から見れば、合理的な選択がなされているので、経済全体を考える経済学としては反論に当たらないというほうが「経済学」らしい意見かもしれない。

第二の反対は、効用を最大化するというなかには、将来時点で手に入る財の購入や将来に備えての貯蓄が含まれるが、その判断は当然将来のできごとに依存する。そして、未来は人間にとって不確実なものであるから、個人の効用最大化の選択能力はおおいに制約されるというものである。
しかし、人間は、意識・無意識にかかわらず、将来のことも念頭に入れながら、常に行動しているはずである。もちろん、その予想にどれだけの脳内資源を割いているのか、とか、どの程度正確なのかということは問題ではあるが、といって、将来が不確実だからといって、目の前のことを選択(行わないという選択も含めれば)しないことはありえない。
これは、効用最大化の判断と、その結果(時間がたった後の)を見れば、必ずしも最適ではなかったということであり、選択の時点で効用最大化の判断がなさけれなかったということではない。

第三の反対は、もっと興味深いものである。
効用を最大化するためには、対象物について知らなければならない。知らないものについて価値判断はできない。
ところで、あなた(一人の人間)は、どの程度の数のものについて、きちんと効用を判断するに足る知識を持っているだろうか。
10個はあるだろうし、100個あるかもしれない。しかし、一万個とか十万個ならばどうだろうか。
ちなみに大型のデパートの商品数は十数万個らしいので、デパートの買い物で効用最大化しようとしても知識不足で途方に暮れることになってしまうというものである。
たしかに、経済学は、経済学として取り扱えるようにするために多くの仮定(単純化)を置いているが、それが現実にあっているとは限らない。
第一の反論も同根であるが、人間は決してスーパーマンでも合理的人間でもない。ただ、現在の人間の限られた能力の中で経済を研究しようとすると、このような単純化をせざるをえないというだけのはずである。
ややもすると、単純化のために行った仮定が現実であり、仮定と異なる現実が間違っているとする学者がいらっしゃるようであるが勘違いされては困る。
もちろん、このような観点からの経済学もあり、興味深い結果を出しているらしいが、(私が)知らないことを(私が)このブログで論じることはできない。(←たまには、知らないのに知っているふりをしていることもないと断言しないが。)

第四の反対も興味深い。
第二・第三の反論は、人間が全知のスーパーマンでないということを論拠にしているが、よしんば、人間が全知のスーパーマンであり合理的人間であるとしても、「現実的」に最大効用の選択は不可能であるというものである。
例えば、与えられた予算の中で10個の商品のどれを買うか(及び現金として取っておくか)について、最大効用を考える。
この際、注意しなければならないのは、A及びBという商品の各単独の効用と、AとBを同時に有することの効用は異なるということである。同時に持つことにより、相補い個別よりも良くなることもあれば、ほぼ同じものならば、二つ持ったからといって、ひとつ持つ以上の効用増加は少ないかもしれない。つまり、いろいろな組み合わせを、それぞれ比較するしかないということである。
10個の商品について、それぞれ買う・買わないという選択があるのだから、組み合わせは荷の十乗で約1000。1000のものをそれぞれ比べると約50万回の比較が出てくる。
もちろん、予算の枠内とは限らないので、その比較が必要であり、逆に、これにより候補が絞られて楽になるかもしれないが、いずれにしてもかなりの数の判断が必要となること自体は間違いないであろう。
ちなみに、ひとつの判断を、脳機能にとって瞬時といえる0.01秒としても50万回の判断には1時間20分かかる。
所要時間は累乗的に増えるので、20個ならば組み合わせは百万以上、比較判断は五千億回以上となり、簡単に人間の一生を上回ってしまうだろう。
もちろん、厳密な効用最大化ではなく、おおよその効用最大化(例えば、厳密な最大化と誤差数%)とすれば、かなり時間は短縮できるが、といって、それほど商品数が増やせるわけではない。
これについては、効用最大化とは別の原理がいくつか提案されているようであるが(例えば、ある行動は(他の可能な選択肢と関係なく)あらかじめ決められたある希求水準を超えていれば選択されるという「満足原理」。)

もちろん、この「満足原理」に従っうことがベストとは限らない。
ある商品を買った後で、もっと高い希求水準を満たす商品が現れたが、もはや予算の関係で買えないということもあろうし、最初に甲商品を買っていたがために、後で見た乙商品の効用が低くなってしまったが、甲商品を買う前に乙商品を見ていれば、乙商品のほうが絶対的にも(価格に対して)相対的にも効果が高かったということも起こるであろう。
つまり、この原理に従うときは、人はしばしば後悔することになる。
こうした事態を避けるためには、希求水準の調節が重要である。希求水準が高いほど失敗が少ないという意味で賢明な買い手になるが、あまり高くなると何も買えなくなってしまう。

経済学に照らしてみると、本当に買い物とは難しいものである。
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経済学者でなくとも大変な選択はある。そして、その効用の大小が日常の買い物(しばしば後悔することがあっても大きな悪影響はない)とは異なり、その効用の大小が大問題なものもある。

(お金持ちならば別であろうが)マンションなどの不動産や自動車という高価であるが、買い替えることが少ないものはその典型であろう。
しかも、これらは、高価であり、買い替えることも少ないため、経験・知識が十分であるとは限らないからなおさらである。

ところで、がん治療での病院選びも重大な問題のはずである。
がんの治療が成熟しており、どこの病院であろうと同様の治療がなされる(と思っている人も多いらしいが)ならばともかくとして、個々の病院により、技術・能力そしてどのような治療を目指すかということがバラバラな現在では、なおさらである。
(もっとも、早期がんで、かなりの確率で手術しておしまいということならば、病院によるバラつきも少ないので、それなりの病院ならば大差はなかろうが。)

しかし、買い物同様に、がん治療の病院選びに効用最大化を図ることは現実的には困難である。

まずは、「衝動買い」。
○○ がんセンターとか大学附属病院という名前に衝動買いをしてしまう危険性である。標準的治療という考え方が広がった現在ならば、このようなブランド病院ならば明らかに誤った治療はされない可能性が高いので実害は低いだろうが、自分が受けたい治療についてきちんとした希望をお持ちの方ならば、それとのギャップに不満を持たれるかもしれない。
それ以上に問題なのは、甘い言葉のトンデモ医療機関に引っかかってしまうことである。
また、トンデモに近い病院を無知なマスコミがスーパー病院であるかのごとく報道したりすることもあるから、注意が必要である。
人間には衝動買いのような、客観的に見れば不合理極まりない選択をしてしまうことがあるということを理解して、うまい話には衝動買いすることなく、主治医なりセカンド・オピニオンという冷静な第三者の意見を参考にすべきであろう。

第二の「将来不確実性」。
たいていの患者は、がんになったのは初めてだろう。また、家族などにがんにかかられた方がいたとしても、その経験どおりになることは少ないであろう。
もちろん、調べれば、「平均的」な経過はわかるだろうが、平均どおりに経過をたどる方は少ないはずである。
つまり、将来、どのような治療が必要となるのかについて、十分な情報もないし、あったとしても、それがそのまま当てはまることは少ないのである。
極端な場合、間違いなく早期がんと診断されたため、外科手術能力を重点に病院を選択したのに、開腹してみたら転移が見つかったとか、確率が低いのに運悪く再発してしまい抗がん剤治療が必要となる可能性もある。
ちなみに、外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和といったすべてに優れた病院を選べばよいと思われるかもしれないが、少なくとも、現在の日本にそのような病院は存在しない。よしんば、それに近い病院があったとしても、ほとんどの場合、治療科ごとに独立しており、実態は、専門病院の集まり、つまり、受診している以外の科での治療は受けられないことが多い。
将来は不確実であり、場合によっては転院が必要となること(あるいは望ましくなること)もあり得ることを常に念頭において、一つの病院に「頼りきりになる」ことは損かもしれない。

第三の「情報不足」。
自由診療の病院(なぜか「?」の病院が多い)を除くと、医療機関の宣伝は極めて限定されたものしか許されていない。
そのため、個々の病院で、どのような治療がおこなわれているのか、また、そのレベルはということを調べようとしても困難である。
病院によっては、HPなどで、治療方針を掲げているところもあるが、抽象的で具体的な内容には結びつかないし、さらにいえば、掲げられた治療方針と実態が一致しているとも限らない。
なお、○○病に対する病院ベスト100のたぐいの情報は、限定された情報をもとに著者の主観により書かれているものが大半であり、「当たらずとも遠からず」ぐらいに思わなければならない。
ある医師(外科)が書かれていたことの中に、「医師どうしの情報ですら当てにならないことがある。医師の間でうまいといわれている先生の執刀を見てみるとたいしたことがないこともある。はっきりと言って、一緒に手術をした医師の評価はできるが、それ以外の医師の評価はできない。」という趣旨のことがあった。
一番、情報に接することが多い医師であってもそうなのだから、外部の患者に十分な情報がわかるわけはない。
また、実際に治療を受けている患者からの情報であっても、主治医が良いだけかもしれないし、さらには、たまたまその患者と主治医のウマがあっただけかもしれないのである。ついでに言えば、その患者は他の病院を知らないだろうから、他との比較ではなく、自分の主観を述べているにすぎないことも忘れるべきではない。
少し脱線するが、抗がん剤治療を行う病院ならば、使用している抗がん剤の一覧程度は示してほしい。もっとも、逆に、患者側に情報の理解能力がないから、病院側も情報提供しても仕方がないと考えているのかもしれない。例えば、使用している抗がん剤の一覧から、おおよその抗がん剤の治療レベルを推測できる私のほうが異常なだけかもしれない。
それにしても、一度選んだら、転院というのは想像以上に大変であるし、場合によっては、ほぼ不可能かもしれない。
如何にして、情報を集めるかというのは、後悔しない買い物(病院選び)のための大きな課題であろう。

第四の「現実的に評価困難」。
病院の選択においても、考慮すべき要素は多い。
外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和などの各治療レベルやもととなる方針。これだけでも多くの要素が出てくるだろう。
さらには、通院時間なども関係しようし、中には、病院の建物が立派かということを気にする方もいるだろう。
看護師さんもポイントかもしれない。
もちろん、ブランド病院に入りたいという方もいるだろう。
これらの要素の多くは比較困難なものである。例えば、ある特定の治療についてのレベルと通院の容易さを比較することは、困難であろう。
多くの、かつ、比較の難しい要素を、厳密に比較考慮し、最大効用の病院を探そうとしても、回答が見つからないかもしれない。

であれば、厳密にベストな病院を選択しようとするよりは、満足レベルに達する病院を探すほうが現実的であるかもしれない。
そして、その際のポイントは、希求レベル(求める満足レベル)の設定であり、これが低すぎれば、後で後悔する確率が高くなろうし、高すぎれば「ないものねだり」となってしまうだろう。

希求レベルの具体的な設定は、個々人の価値観に負うところが大きいだろうから、具体的に書くべきものではないだろう。
ただし、希求レベルの背後には、どのような治療が受けたいのかという患者のポリシーがなければ不十分なものしかできないだろうし、どのような治療が受けたいのかということは、患者自身が望ましいと考えている生き方に裏打ちされたものでなければ「もろい」ものになってしまうと考えるが、どうだろうか。

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